三菱鉛筆の秘密!
三菱鉛筆は日本を代表する文房具メーカーとして、日本のみならず世界中で知られていますね。
今回はそんな三菱鉛筆の秘密についてちょっと紹介していきたいと思います(*‘ω‘ *)
三菱財閥とは別物って知っていましたか?
鉛筆と言えば「三菱」というぐらい有名で馴染みあるものですが、その歴史はあまり知られていませんよね。
例えば、鉛筆にお馴染みのスリーダイヤのマークや「MITSU-BISHI]の社名を見てほとんどの人は、あの三菱財閥系のグループ企業なのではと思うでしょうが、実はそうではありません!!
もともとこの会社は、眞崎仁六が1887年に東京の新宿に眞崎鉛筆製造所として創業したのが始まりです。
はさみ鉛筆から、現在の形に・・・
当初は、逓信省(現在の日本郵政公社)に、はさみ鉛筆を納入していました。このはさみ鉛筆は棒状の本体に替芯を挟んで使用する物でしたが芯が引っ込んでしまうという欠点があり、
その為 逓信省は削り鉛筆と呼ばれる削るだけで使える、現在の鉛筆のようなタイプに替えるよう眞崎仁六に指示しました。
当初から、眞崎仁六は削り鉛筆の分野への進出を検討しており、 逓信省からの正式な依頼を受けて本格的に削り鉛筆の開発しました。
そして、試作品を持って 逓信省を訪れたちまち評判となり、いきなり2万本の発注を受けました。
この削り鉛筆が納品されたのが1901年です。これを記念して、眞崎家の家紋でもあったミツウロコをアレンジしたマークを1903年に商標として登録し、自社の鉛筆に刻印するようになりました。
この商標が登録されたのは、三菱財閥の三菱商事がシンボルマークとして商標登録する10年も前の事です。
スリーダイヤのマークの商標登録
つまり、最初にあのスリーダイヤのマークを商標として使い始めたのは、眞崎鉛筆製造所が最初という訳です。
しかし、このスリーダイヤが人々の間に浸透し、通称で三菱鉛筆と呼ばれるようになっても、眞崎鉛筆製造所の会社名を維持し続けました。
そんな状況が続き、日本が終戦を迎えた後、日本にやって来たGHQはこのシンボルマークと社名を見て、てっきり三菱に関係がある財閥系の企業と思い込み、財閥解体の影響を受けて、一時はスリーダイヤの商標抹殺寸前まで追い込まれる事になりました。
この際、再三に亘るGHQからの商標の使用禁止の圧力にもめげず、経営陣が財閥とは関係がない事を再三説明し、GHQの要請をことごとく退けました。この際、GHQから商標を使う条件として提示されたのが、商標が非財閥であることを社告で公告し、製品にも明記するという事でした。そんな訳で、戦後間もない頃の製品には、NON財閥、非財閥といった具合に財閥とは関係がない企業である旨が記載されていました。
ようやく三菱鉛筆に改称
そんな騒動を経て、ようやく社名を眞崎大和鉛筆などを経て現在の三菱鉛筆株式会社と改称したのは、終戦から7年以上が経過した1952年の事でした。
ちなみに、旧三菱財閥系のグループ企業とは名称こそ似ているものの、資本・人材関係は一切存在しません。
今回はちょっと歴史のお話しとなりましたが、なかなか知られていない「三菱鉛筆」の歴史、ちょっと知っているだけでも、なんだか鉛筆のありがたみや印象も変わってきますよね。(*‘ω‘ *)